SAKEアカデミー
by wajowaraku
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ご支援、ありがとうございます!
こんにちは。仙台の阿部八酒店です。
まずは、このたびの大震災で被災された方々にお見舞い申し上げます。
また、全国、世界の皆様からの暖かいご支援、本当にありがとうございます。

3月9日のM7,3の地震は序章だったのでしょうか…
3月11日、あの時間、2日前の余震かな?と思わせる小さな揺れは、
後半一気に長くて激しい揺れになり、その中で、目の前の酒が次々と倒れ落ち、
停電で暗くなった店内の光景は、私自身小学生だった時の宮城県沖地震を思い
起させる、まさに悪夢を見ているかのようでした。

店舗前の通りに出ると、車も止まり、通行人も座り込み、シーンと静まりかえった
様子は、まるで映画のワンシーンを見ているかのようで、不気味な静けさで明らか
にパ二ック状態。

電気も止まり、テレビでの情報は得られず情報はラジオで得ておりました。
電話も通じないためメ―ルで家族の無事を確認し一安心したところで、
ある程度店内を整理して、先ずは自宅に帰ることに。信号が消え、町の明かりは
車のライトだけ、という異様な光景はこの世とは思えず。そして、まだその時点で
津波がこんなにも巨大で甚大な被害をもたらしていたとは知らず…。

時間が経つにつれ、次々と情報が入る度に、「うそだべ?」と思う程の津波の被害。
まさか、そこまで津波がきたの…と耳を疑うほどです。見慣れた光景、時々買い物に
行ってた店のほとんどが変わり果てた状態に、あまりに非現実的で言葉になりません。

私自身、津波の被害がなかっただけでも幸いとしなくてはなりませんが、
地震直後の食材、ガソリン、灯油の確保にはかなり苦労しました。大人だけなら我慢も
できますが、食べ盛りの中2の息子、3歳の娘は空腹にはさせられないと思い、
開くかどうかもわからないスーパーに2~3時間並んだり、食べられるものは
手当り次第ゲットするといった感じで、でもお一人様どれか5品までとか制限が
あったり。それでも「今日はバナナ買えたど~!」などと家族で喜んだものです。

また給油できるかどうかも分からないガソリンスタンドに、前夜の9時から翌朝
の開店まで並び(灯油も)、それで給油できた時の感動はたぶん一生忘れないでしょう。

ガスも止まりましたので、風呂も入れず。しばらくは大丈夫、大丈夫と気を張って
いましたが、さすがに10日目位に限界が来まして、温泉だけ解放してました秋保の
旅館へ。入浴の瞬間、風呂がこんなに気持ち良いものとは、とこれも感動でした。
同時に、毎日風呂に入るのが贅沢にも思うようにもなり…。

すべてに並んだ時間…延べ40時間はいってるでしょう。

今振り返りますと、これがあって助かったぁ、て思うのが
 
  車用の携帯の充電器、反射式石油ストーブ(暖を取り、湯を沸かし、調理もでき)、

あとは、やっぱり非常食(缶詰め、カップ麺、飲料水)と、非難グッズは用意してた
ほうが良い、と痛感しております。

ライフラインでは、電気、ガスより水道に一番苦労しました。
やはり最低でも風呂の水だけは流さないで残しておいたほうが良いですね。

震災は、忘れたころにやってくる、ほんと油断できません。皆様もお気を付けください。
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by wajowaraku | 2011-05-22 01:17
宮城県内陸部
宮城県の(有)大沼酒造店です。東日本大震災より2ヶ月がたちました。
 私の町は、国道4号線より少し山手に入った所にありますので、震災の時は地震だけでした。(震度6強)
津波の被害はありませんでした。町内の場所で亡くなった方はおられませんでしたが、沿岸部で仕事をしていた方が数名お亡くなりになりました。同じ宮城県でも沿岸部の方々の事を思うと、申し訳ないと言うか、残念でなりません。  私の町、蔵の町村田、小京都村田。歴史は古く、江戸末期、明治、大正と古い蔵がたくさん建ち並んでいます。今回の地震ではたくさんの蔵が被害を受けほとんどが赤紙を貼られました。立ち入り禁止です。弊社の蔵も赤紙を貼られました。取り壊しを含めての選択です。---3月末沿岸部のお得意様のお見舞いに行きまし所、何もありませんでした。お得意様は無事でしたが、何もありませんでした。受け継いできたもの、築き上げてきたもの、すべて無くなってしまったと。---弊社は仕込蔵が甚大な被害を受け、プレハブの冷蔵蔵でもしょうがないかとも考えましたが、受け継いだ物、事、の重さを今さらながらに考えさせられ、何とか一部でも江戸末期の蔵を残せないかと思っている所です。毎日の様に余震が続きますが、それでもやっと落ち着きを取り戻しました。内陸部でも全国の皆様にたくさんご支援していただきました。
感謝いたしております。(村田町の給水車は熊本から来ていただきました。)前を向いて進むしかありません。
今年の冬何とかお酒造りが再開できるように努力していきます。皆様と共に頑張って行きたいと思います。
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by wajowaraku | 2011-05-17 12:26
今思うこと。
宮城県仙台市カネタケ青木商店です。


3月11日地震発生時私は平孝酒造さんの蔵へいました。
ちょうどお昼を平井社長と食べて蔵へ戻りお茶を頂いていた時でした。

地震発生です。
 
立ってられないほどの揺れが2,3分続いたでしょうか。

サイレンが響き津波の警報が鳴り続けます。私たちは何も出来ないまま近くのマンションの高台へと非難しました。
仙台の店舗との連絡も取れず不安が広がっていきました。

蔵の周りはじわじわと水が入ってくるような感じでした。
しばらく非難していたのですが車のテレビをつけた時初めて状況が分かり愕然として、これから大丈夫だろうかという恐怖を感じました。

従業員は無事か、店は大丈夫か、、不安で殆ど眠れません。。

仙台に戻れたのは4日目、3日間は蔵でお世話になってました。3日もお世話になってしまい平孝酒造様には頭が上がらない思いです。

4日目は水が大分引いてきたので車で通れる所を迂回しながら仙台を目指してました。

途中の石巻の津波の被害状況は目に焼きついて一生忘れないでしょう。

ある地点まで来ると携帯電話が通じるようになり連絡がとれました。
皆無事との事。

本当に良かったと心から思いました。

店の被害としては店内、バックヤードで在庫の半分程度は破損してましたが、倉庫、冷蔵庫はさほど被害はありませんでした。
隣のコンビニも開いてない、周りが夜になると暗いんです。少しでも明かりを灯そう、そんな気持ちで15日から在庫での営業をはじめて今に至ります。


今回思ったことは本当に色々な方々に支えられて生活しているんだということ。
本当に助けられました。

蔵の情報が一般の皆様に正確に伝わっていないことが非常に多くありました。
私たち酒販店は蔵元と直接会話する機会が多いですから、お客様に今、現状を正しくお伝えすることが使命だと思いました。

そして何より蔵からお酒を買って、皆様に飲んでいただき少しでも楽しい時間を過ごしてもらう。

今はこんなシンプルな事を考えております。

株式会社 カネタケ青木商店  
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by wajowaraku | 2011-05-13 10:30
希望の光
日高見 震災復興酒 希望の光

こんにちは、平孝酒造の平井です。
この度の震災で被災したお酒を、震災復興酒 希望の光として販売しています。
このお酒は、平成23年3月11日(金)の東日本大震災によって被災したお酒です。純米酒を中心に大吟醸や純米吟醸など、発酵中のお酒が被害に遭いました。震災直後、仕込み蔵は地震の揺れの激しさから、発酵中の醪(お酒)がタンクから溢れ、床一面、白い絨毯を敷き詰めたのかと、錯覚するような情景でした。溢れ出た醪は霧状になり、辺り一面に立ち込め、蔵の奥が良く見通せない状況で目の前の光景を疑いました。そして、溢れ出た醪が発生している音なのか、今までに聞いた事の無いような音が蔵内にこだまし、まるで醪の悲鳴のようにも聞こえ、何とも言えない恐怖感を覚えました。建物のいたるところが壊れ、立ち入る事が困難になり、同時にライフラインが寸断し、発酵中のお酒の管理が出来なくなってしまいました。何の手立ても出来ず、ただ、呆然と指をくわえて見守る日々が続きました。一週間が過ぎても復旧の目処が立たず、発酵中の醪の全廃を覚悟しました。しかし、震災から二週間目、電気など一部ライフラインの復旧などが重なり、諦め掛けていた醪を、遂にお酒として甦えさせる日がやって参りました。ただ、放置している時間が余りにも長く、垂れ口から搾り出されるお酒の品質がとても心配でした。しかし、我々の心配をよそに、そのお酒はとても力強く生命力に溢れ、我々に勇気と希望を与えてくれました。本来の酒造りでは、如何に良い酒を造ろうかと凌ぎを削りますが、このお酒からは普段の酒造りでは味わえない感動を貰いました。蔵の有る宮城県石巻市はこの度の震災で、壊滅的な被害を受けました。勿論、弊社も甚大な被害を受けました。しかし、被災した石巻市の惨状を見た時に、弊社は本当に生かされたのだと、強く感じるほか有りませんでした。普段の生活では感じ得ない、感謝の気持ちを強く痛感させられ、造り酒屋として何か地域に貢献する事は出来ないか、自然と、その様な気持ちが芽生えて参りました。そして、この気持ちを大事にしたいと考えるようになり、この被災したお酒を震災復興酒として販売し、少ない金額になりますが、売上金の一部を義援金として、私達の住む石巻市に献金したいと考えております。また、我々が励まされた、このお酒を通して、御愛飲頂く全ての方々に希望の光をお送りする事が出来れば幸いに思います。                
(株)平孝酒造 店主謹白
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by wajowaraku | 2011-05-10 08:52
岩手の南部美人より東日本大震災のご報告
2011年3月11日、午後2時46分、この日を私は一生忘れません。そう、未曾有の被害をもたらした、東日本大震災の日です。
東北地方を中心に、多くの尊い命が失われ、今でも行方不明者、そして行方不明者にもカウントされない方々が多数おります。
あらためてご冥福をお祈りいたします。
海外の皆様からも、この大震災で多数の方々からご心配と、お見舞いのメッセージをいただきました。
今回のコラムからは、この大震災について、今の日本の現状をご報告させていただきます。
2011年3月11日、私は二戸駅から13時09分出発の「はやて」に乗り、仕事のため東京へ向かっていました。10号車14番C席が私の座席でした。穏やかな春を思わせる暖かい日差しを覚えています。
仙台駅で多くのお客さんが乗り降りして、仙台駅を出発ご、スピードに乗って、トンネルに新幹線は入りました。午後2時46分、トンネル内で新幹線の照明が突然消え、真っ暗になりました。車掌さんのアナウンスで「東北地方に大きな地震がありました。停電しましたので、新幹線は一時停止します。」と言われ、徐々に新幹線は減速し、トンネル内でストップしました。
止まってしばらくして、電車内の電気がつきました。アナウンスでは、大地震が起きたので、新幹線の線路を全て確認している、とのアナウンスが繰り返し流れます。
しかし、いつになっても復旧せず、数時間がたったあと、急に電気が消えて真っ暗になりました。自家発電の節約のようで、これは長期戦になると感じました。
手元にはペットボトルの水が半分。食料も当然無い。携帯はトンネル内なので通じにくく、しかもバッテリが残り少ししかない。
何度か家族にメールしても全く通じなく、情報から隔離された状態になりました。
車掌さんから「修繕に長い時間がかかる模様。長期戦になります」とアナウンスがあり、仕事も含め、この日の予定を全てあきらめました。

新幹線の電気は消え、真っ暗。携帯はつながらずバッテリーはもうない。食料も新幹線の車内販売は売り切れ、そして飲み物はペットボトルの水が半分。さらに新幹線は電気で全て動いているため、トイレも水を流せない、暖房は切れて、非常に寒い状態になりました。
私の乗っていた新幹線の10号車には多くの子ども達が乗っていました。私の席の後ろにはまだ1歳にも満たないような赤ちゃんを連れた親子がおりました。毛布は新幹線のグリーン車にありますが、枚数が全く足りません。
赤ちゃんを抱えた親子に私のコートを差し出して、私は持っていた岩手日報の新聞を足に巻き、うずくまるように目を閉じて時間をやり過ごしました。
12時間近くたって、ようやく最初の救援物資が到着。おにぎりとパン、そしてペットボトルの水とジュースが配布されました。
水分が一番心配だったので、これで一安心でした。しかし、おなかが空いていましたが、どうしても食べる気になれない。それはトイレが全く動かない状態なので、そのプレッシャーもありました。男の私でそうですから、女性はかなり大変だったと思います。
とにかく情報が無く、車掌さんのアナウンスだけが頼りです。この時点で、大きな津波が来て、沿岸部が壊滅状態になっていたことは全く知りませんでした。
この時の私の心境は「運が悪かった。仕事の予定が全てくるってまいった。全くJRは何やってるんだ」という気持ちでした。今考えればとても恥ずかしい思いです。
とにかく自分のことしか考えられない、本当に今思えば情けない状態でした。

そのうち、アナウンスで「新幹線内が一番安全です。決して新幹線から出て帰らないでください」と流れ続けます。ふと窓から外を見てみると、トンネル内を歩いている人がいっぱいいました。「なんだろう」と思い、見てみると、東北新幹線は全て「禁煙」でした。煙草を吸う人がみんな外に出て煙草を吸っていました。
こんな非常時にマナーを守るなんてすごいな、と思いましたし、救援物資は全て女性と子ども達優先、と乗客みんなで協力し合って新幹線の中で過ごします。
暗闇の中ですから、時計を見ても時間があまり理解できません。
おおよそ20時間以上経過して、やっと「救助が来ました」という連絡が入ります。
ちょうど止まっている新幹線の200m近い先に脱出用のトンネルがあるとのこと。やっとそこへ救助のバスが用意できる見込みが出来たと、アナウンスがありました。
後から聞いてみたら、トンネル内ではなく、線路の上で止まっているだけの新幹線の乗客は歩いて最寄りの駅に地震後移動したようで、トンネル内で被災、という特殊な事情から救助が遅れたようです。
救助の見込みが立ち、新幹線内で妙な連携が出来た乗客同士、喜び合います。そしてまずは東京方面と青森方面の2つに分かれます、との話でした。東京に行く人、青森方面に帰る人、これを分けてまずは新幹線から脱出します。最初は東京方面へ移動する人が新幹線を降ります。しばらくして、青森方面に帰る人が新幹線を降りる予定でしたが、かなりの時間待たされました。どうしてこんなに遅いんだろうと思ったら、その理由がやっとわかりました。それはバスの用意が間に合わなく、当初は青森方面にバスで帰してもらえるはずだったのが、急きょ福島市内の避難所に青森方面に帰る人は移動することになりました。
岩手に帰れるのか?

トンネルからやっと救出された青森方面に帰る組。しかし最初に東京方面に帰る人たちはバスに乗り込み、東京方面へ帰りましたが、青森方面に帰る人はバスが2台しかなく、とても乗り切れないので、ピストン輸送で、福島市内の高校の体育館の避難所に急きょ移動させられました。避難所生活です。
雛所に到着すると、パンと飲み物が渡されました。ガスと水道は止まっていましたが、この避難所は電気が奇跡的にとおっていて、テレビなどを見ることが出来ました。ここで一同唖然。大きな津波が沿岸部を襲っている映像が繰り返し流されています。
沿岸の方から来ている人は泣き崩れ、親族に電話をして安否を確認する人が多数。
しかし携帯は全くつながりにくい状態で、なかなか電話がつながりません。1台だけあった公衆電話は長蛇の列。そして、丸一日以上閉じ込められていたため、携帯のバッテリーがみんな無いため、コンセントの前では携帯の充電のための長い行列。本当に混乱の極みでした。
そして、極めつけは、福島第1原発の事故がわかり、その原発事故で福島市内の避難所は大混乱をします。後でわかりましたが、福島第1原発からは80㎞近く離れていましたが、土地勘が全くないため、放射能におびえます。
やっと私はメールで家族に連絡がつきました。電話は全く駄目でも、メールはつながりました。二戸にいる家族も大変だったようで、混乱しています。そして停電の影響で、蔵がとても心配でたまりません。仕込みはボイラーが使えないから、出来ないだろう。麹室は温度を高くしているが、どうやって温めるか。しぼりはどうなっている。不安だらけです。
その不安の中、配給された毛布にくるまって眠ります。体育館は本当に寒く、眠れるような状態ではありませんでしたが、体を休めなければ持ちそうにありません。寒い中、とにかく横になりましたが、眠れる状態ではありません。避難所とはそんな過酷な状態の場所なのです。

避難所で毛布にくるまり、体を休めていましたが、眠ることが出来ません。JRの職員に聞いてみても、いつバスが用意できるかわからない、それは福島の原発の事故で、避難指示が出たため、そちらにバスが優先的に行っているとのこと。さらに新幹線は全く動く見通しが立たないとのこと。結局一か月以上新幹線は通らない事になります。高架が崩れてしまったところも多く、復旧に非常に時間がかかったそうです。
眠ることが出来ないので、外を散歩しようと出てみると、校庭に1台のタクシーがいます。そのタクシーに乗り込もうとしている方々に声をかけてみました。
タクシーはなんと、仙台、盛岡に行ってくれるという事で、3人で代金をシェアして乗るという事がわかり、その3人の中の一人が「盛岡までならもう一人乗れるので、一緒に行きましょう。荷物をまとめてきてください」と声を掛けられました。
なんというラッキー。どうやって帰るか見通しが立たなかったところに、光が差し込みました。しかし、同じように体育館に避難している200人近い方々は動く事が出来ず、自分だけ帰っていいのか迷いましたが、家族のため、お酒の仕込みのため、帰ることにしました。
すぐに荷物をまとめて、タクシーに乗り込み、高速道路が止まっているので、一般道路の国道4号線を北上していきます。途中大渋滞にも巻き込まれながら、どうにかして家にたどり着きました。夜中でしたが、家族と再会して、みんな無事を確認し、気が緩んだのか、みんなで大泣きしました。家族が離れて被災する、というのは本当につらいことだと思いました。
たまたま散歩をしに外に出て、たまたまタクシーをみつけて、たまたま声をかけて、たまたまタクシーがガスを満タンにしていて、まだガソリンが足りないと騒動になる前だったなど、本当に偶然が重なり早く会社と家に帰ることが出来ました。偶然が重なったのですが、これが無ければ私もしばらくは避難所生活が続きました。
こうして、ようやく家族と一緒になりましたが、ここから、とんでもない沿岸部の津波の被害と、原発の被害が東北を襲っていることがわかり、唖然とします。

また時期を見て、この後のお話は書きたいと思います。
ご存じのとおり、岩手県をはじめ、東北の被災地は復興に向けて力強く歩み始めています。
日本中の、いや世界中の皆さんの力をいただきながら、頑張っています。
私たちは負けません!!
必ず、将来の子ども達のために、明るい東北を取り戻すために、今私に出来ること、そして持てる能力全てを使って東北のために行動していきます。

頑張ろう!東北!!
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by wajowaraku | 2011-05-07 06:39
東日本震災被災蔵元支援 利き酒 販売会 5月14日
東日本震災被災蔵元支援 利き酒 販売会

☆ 2011年5月14日 午後1時―4時
☆ 場所 社団法人 日本外国特派員協会
☆ 住所 千代田区有楽町1-7-1電気ビル20階
☆ 電話 03-3211-4395
☆ 会費 5,000円(日本酒1本付き)
   お酒のお買い上げをお願いします。
☆ 主催 社団法人 日本外国特派員協会



3月11日の地震、津波、原発以来東北の蔵元は
さまざまな被害と経営難に直面しています。
激励と支援をかねて利き酒と販売の会を開催いたします。
東北の郷土の料理などとともに、
蔵元や酒販店からの稀少な酒のオークションも行います。
すでに資金面などの支援は始まっていますが
私たちは蔵元の酒を買って、飲み続けることも大きな支援につながると思っています。
海外への輸出も厳しくなってきています。
日本酒が安全なこともプレスクラブで大いに宣伝しましょう。
多くの皆様のご参加とご支援をお願いいたします。



東日本参加蔵元:

浦霞、男山、人気一、南部美人、日高見、田酒、雅山流、十四代、国権、飛露喜、鳳凰美田、乾坤一(4月末現在)




支援蔵元、支援酒販店、支援企業:

いずみ橋、磯自慢、醸し人九平次、天狗舞、黒龍、佐久の花、御湖鶴、宝剣、土佐しらぎく、東洋美人、三井の寿、田端酒造、酒の柳田、阿部八商店カネタケ青木商店、斎林本店、泉屋、酒乃店はやし、スドウ酒店、いまでや、いづみや、雪乃屋こぐれ酒店、かがたや酒店、はせがわ酒店、味ノマチダヤ、さかや栗原、三ツ矢酒店、小倉屋酒店、たけくま酒店,望月商店、酒乃生坂屋、酒のやまもと、すみの酒店、大和屋酒店、とどろき酒店、Le蔵、みのや吉兵衛商店(4月末現在)





参加をご希望される方は、
日本外国特派員協会様へ直接お問合せください。
03-3211-4395

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by wajowaraku | 2011-05-06 13:47
完全復活へ向けて!
皆様!お元気ですか。宮城県の齋林本店 齋藤です。大震災から約2カ月がたち、ようやく落ち着きをみせてまいりました。当店の位置するところは大きな被害を受けた沿岸部より30分圏にあり、たくさんの方々とふれあい・そこで感じた事を書きたいと思います。少々、長くなりますが気長に読んで下さい。
3.11 大震災 震度6強。長く強烈な揺れの中、私はご来店のお客様に覆いかぶさり守ることで、精一杯でした。リーチインの上段からゴンゴンと私の背中に落ちてくるお酒。目の前でガシャガシャと落ちては割れていくお酒。どうしようもありませんでした。
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外は、蔵が崩れ土煙りでモヤがかかているような状態・・・・呆然としていた私ですが、急いで家族とスタッフの安否を確認し、ほっとした・・・そんな記憶が残っています。店舗は、2年前に改装したばかりで持ちこたえましたが、古い家屋・酒倉庫・蔵の被害が大きく避難所へ。
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翌日より、日が昇るとともに片づけをし、日が沈むとともにロウソク生活でしたが・・・・缶ビール・カップ酒・タバコ・ジュース・水など物資を求める人たちでたえません。もちろん店内では、対応できる状態ではありませんでしたが、個人商店の稼働力を生かさねば!!と思い、店外の軒下にP箱やテーブルを設置し、「青空酒屋 齋林」を開店させて、一日も休まず営業をしておりました。はじめは地域の方々から、日が経つにつれて、被害の大きい沿岸部の方々までたくさんいらっしゃいました。家族を亡くされた方・家を流され避難所もいっぱいで車生活の方。おじいちゃん・おばあちゃんを親戚に頼み子供を捜しに行く若い夫婦・山の中の避難所で物資が届かずガソリンを分け与えられみんなのために必死で食べ物を探している方・・お酒とジュースを手にした瞬間、少し安心したのか涙を流す方も・・・酒屋である私にできること。やはり、日本酒です!こんな時に、お酒なんて!!と思う方もいらっしゃると思いますが、決して宴の酒ではございません。祝儀だけではなく不祝儀にも用いられるお酒。人の喜怒哀楽には欠かせないものだと思いました。ならば今は、「安心と安らぎ、そして明日への活力となるお酒」を!と思い、現場での提供プランを何通りか考え・提案し、受け入れてもらえるか確認をとったところ、OKをいただきました。瓦礫撤去でガソリンが底をつき自ら届けることができませんでしたが、はじめは90本。
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トラブルはないか?飲んでいただいた後の様子を確認しながら2度にわたり、さらに100本づつ提供しました。「毎日が不安で疲れ果てているのにも関わらず眠れなかったが、1杯のお酒でゆっくりと休めました。」「不眠不休で働いている関係者のみなさんの活力になりました。」「話をしなくなったお年寄りが、みんなの輪に入るようになりました。」「一瞬ながらも、多くの人に笑顔が戻りました。」など、たくさん嬉しい感謝の声を頂戴しました。「日本酒は、間違いなく支援物資になります。」私は、そう思います。私が、そのようなことをしている傍らスタッフのパワフル垣崎は、黙々と瓦礫の撤去!
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新人の山村(赤いダウン)は、店内の復旧に全力で取り組み!
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電気・水道も戻り、ガソリンパニックも緩和され、ようやく3月31日より配達をスタートすることができました。これから!ガンガンいこうー!と気合いを入れはじめたさなか・・・・・4.7 深夜の余震 震度6弱。縦揺れで、本震とは比べものにならないくらいパワフル。余震に備え、陳列棚・倉庫の在庫はロープで縛っていたので破損は最小限にまぬがれましたが、家屋・酒倉庫・蔵は、トドメを刺され全壊となり、さらに店内リーチイン・バックヤードのプレハブ冷蔵庫の配管がバラバラ、ファンが瓦礫で潰されて動かなくなってしまいました。「振り出しに戻ってしまった。」さすがに、2度目は心が折れました。そんな時、夜明けととに「阿部勘酒造 三銃士」が、フル装備でヘルプに参上!
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さらに翌日には、北海道から「そば居酒屋 翠明庵の吉田親方」が!(オレンジの帽子)そして、当店のご意見番「ミスター渡辺 氏」(白てぬぐい)が手伝いに来てくれました。さらに、軍手を手にたくさんのお客様が「手伝います!」と・・・・熱くなりました。涙が止まらず仕事になりませんでした。当然、折れた心は前よりも太い柱となり、揺るぎないものとなりました。お見舞いに来ていただいた蔵元さん・そして酒屋さん。正直、つらい日々でした。でも、皆様のお顔をみることで元気になれました。ストロングな牛丼特盛も絶対忘れません。あっという間の2ヶ月間。現在は、倉庫のお酒の引っ越しを終え解体し、新倉庫のプランを打ち合わせ中です。
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お店も、リーチインが動きもうすぐ完全復活です。
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皆様に支えられ、ここまでこれました。心より感謝申し上げます。
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by wajowaraku | 2011-05-06 01:55


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